スタイリスト青木貴子さんによる、素敵な人に一歩近づく生き方指南。こんな時代だからこそ、前を向いて歩いていくためのヒントをお届けします。
「食する」ことから思いを巡らす
先日、和食の原点とも言われている精進料理にまつわる講座を受けてきました。肉・魚などを使用せず、野菜・大豆類など植物性の材料で作られる精進料理は、ビーガンやベジタリアンのひとたちが食べるような、食物に対する主義というようにとらえられてしまうことがありますが、そうではなく元々は調理・食事作法・後片付けまでの一連の流れを修業と捉え、仏教用語で言うところの「精進(そうじ)=心身を清めること」の一環なのだそう。なので仏教書には「精進料理」という名称は登場せず、食事は「精進物(そうじもの)」と呼ばれるようです。
奈良時代から僧侶たちは菜食を行なっていましたが、精進物を今の精進料理の礎となるまでに高めたのは鎌倉時代の禅宗です。食事の作法など当たり前と思われてしまいがちな日常の行いをも重んじました。その結果、精進物は和食や茶道にも大きな影響を与えるようになった(千利休は精進料理に着想を得て懐石料理を編み出した)のだそうです。
道元は調理の大切さを説いた『典座教訓(てんざきょうくん)』と食事の作法と心得を説いた『赴粥飯法(ふちゃくはんぽう)』で、作る修業と食べる修行の尊さを伝えています。その「赴粥飯法」に記されている、食事をする前に僧侶がお唱えをする『五観の偈(ごかんのげ)』という文言がとても素晴らしいのです。
一つには功の多少を計り 彼の来所を量る
(功=手間がかかっていること、彼の来所=食物がどうやって生まれ、育まれ、ここまでやって来たのか、その尊さをよく考える)
二つには己が徳行の 全欠を忖って供に応ず
(普段の生活を振り返って、自分が食事を頂くに値する人間かを考える)
三つには心を防ぎ過を離るることは 貧等を宗とす
(貪り、怒り、愚かさなど過ちにつながる迷いの心を諫めよう)
四つには正に良薬を事とするは 形枯を療ぜんが為なり
(欲を満たすためのものではなく、良薬として食事を受け止めよう)
五つには成道の為故に 今此の食を受く
(皆で共に仏道をなすことを願って、感謝してこの食事を頂きましょう)
私も今回講義を受けるまでは『五感の偈』の内容を知りませんでした。いま、私たちが食事の時にカタチとして口にしている「いただきます」と「ごちそうさまでした」はこういうことなのか…!と恥ずかしながら思った次第。
感謝の気持ちがもたらしてくれる恩恵とは?
『五感の偈』を知ると「いただきます」と「ごちそうさまでした」は単に「お料理を頂戴します、しました」ということではなく、お料理を通して生じる食する物との縁起(食べられるようになるまでの過程、例えば植物なら種が土と出会い、太陽に出会い、生産者が出荷し、運送してくれる人の手を介して届く、それを心を込めて調理してくれる人がいる、といった関わりのある多くの事柄)に思いを巡らせたり、自分自身を振り返ったり、栄養になってくれる良薬としての食の質や量とは?などなど「多くの気づきを与えてくれることに対する、さまざまな感謝」の気持ちが込められるべき言葉なんだと! 「いただきます」と「ごちそうさまでした」の前には「有り難く」と足して言いたいくらいですね。
調理をする時や食事の前に『五感の偈』の内容を心に思い浮かべるだけでも、毎回食べる、ひいては生きること自体への感謝の念が生まれてきて、いろいろなことをより大切に捉えることが出来るようになれそうです。
忙しいととかく目の前のことだけを考えがちですが、調理の時や食事の時に、命ある大切な食材だから食べてくれる人のためにうんと美味しく調理しようとか、余すことなく使い切る努力や工夫をしようとか、このトマトはとっても甘いけどどうやって育ってきたんだろう? 収穫した土地に旅行してみたいなぁとか、最近とっても頑張ったから週末はご褒美ご飯を食べに行く資格あるよね!とか。なんかこう、食に感謝することを通して、ちょっとしたクリエイティブな発想を試して楽しんだり、妄想トリップみたいなことができると、忙しい毎日にちょこっとゆとりの時間が生まれるのではないかと思います。
有難いことに食事の機会は毎日何度かあります! その時を色々なことに感謝し、心を見つめる時間とすると、気持ちにメリハリがつけられるし、忙しい日常を緩急のついた豊かな毎日にすることが出来るのではないでしょうか。