言葉を大事にする壇蜜さんが“今となっては見慣れすぎて見過ごしがちだが、よく考えると奥深い言葉”を「今更言葉」と名付けて考察。【今更言葉で、イマをサラッと】
その70 ですから
いわゆるカスタマーセンターなる場所に相談をしたことがある。少し前の話だ。パソコンの調子が悪い、というざっくりとした理由で焦りながら電話をかけてしまった私も悪いのだが、カスタマーセンターのオペレーター殿も虫の居所が悪かったらしく、お互い「悪い」にハマってしまい、最終的には私が諦めて電話を切るという結末になったのを覚えている。結局パソコンは買い換えた。
虫の居所が悪い…というムードはオペーレーター殿が発するある言葉に込められていたように感じた。しかも上手く説明できなくてもどかしい思いをしていた私には、その言葉が「あ、突き放されている感じ」と受け止めてしまうような状態だったのもある。恐らくその日のお互いが相性が悪い、波長が悪かっただけなのだろう。もし二人で面と向かって話せたなら、意外とスムーズに話は進んだかもしれないし。
「ですから、〇〇しないことには…」
「ですから、お客様のご説明ですと…」
ーーああ、「ですから」の連発に私の気持ちはすっかり折れてしまったのだ。「ですから」は私の言ったことに対して説明をしてくれているが、受け取る側の私がちゃんと反応できていない、理解できていないまま変な方向に行ったり、同じ質問を繰り返したりしているという対応に困った故に発された言葉なのだろう。私は会話の度に耳に入る「ですから」が数回続いたところで、「もうどうにもならんな」ということに気付いて説明力不十分な己の運命を見限り、「分かりました。ありがとうございます」となけなしの力で返事をして電話をそっと切ったのだった。
そのとき以来「ですから」は何となくだが「何度も言ってるじゃないか」「さっきから同じ質問をしてない?」という突き放した印象をあたえるのかも…と思い極力使用しないようにしているし、堂々めぐりになりそうになっても違う表現「なので」「そのため」「というわけで」などに切り替えて話そうと心がけている。「ですから」が持つ丁寧さはある。しかし同時に突き放す力もある。使用注意の言葉として心に秘めておくのだった。