通勤電車で、ベッドで眠りにつくまで、週末に――味わいながら読みたいおすすめの書籍をライター 温水ゆかりさんがご紹介。
『前の家族』
自分のお金で自分の家を買う。たったそれだけのことだったのに…
「借金して家を買おう、そう思いついたのは六年前のことだった」。こんな書き出しで始まるこの物語の語り手は、大学の創作講座でも教える作家。きっかけは新築マンションのチラシだった。家を買うなんて考えたこともなかったのに、欲しくなった。理由はいくつも浮かんだ。ずっと家賃を払い続けるのは不安、このまま独身でも自分の家があれば安心などなど。このへんの心の動き、すごくよく分かる。結婚より屋根のある家。働く女にとっての不安は、結婚できるかどうかではなく、屋根のある所に住み続けられるかどうかなのだ。
こうして不動産のサイトを定期的に覗くようになった「わたし」はある日、徒歩1分の所に理想の物件を見つける。築12年、3階建て3階の角部屋、こだわっていた西日も入る2LDK。価格もローンの予算内にぎりぎり収まった。
さて、このお話はここからが本番。部屋を自分好みにリフォームし、前住人の痕跡も消えた頃、近所に一軒家を建てた前の家族の9歳の娘がやって来る。新しい家は「よその家のにおいがする」らしい。妹も一緒に来て宿題をしたりお絵描きをしたり。そこに恐縮しきったママがやって来る。
こうして37歳の猪瀬藍(わたし)は、36歳の小林杏奈(ママ)と親しくなり、小林家の新居にお泊まりまでするようになる。幼い姉妹のお姉ちゃんとして温かい食事を供され、ぬくぬくした寝床も用意されるという強烈な快楽。新作を書きあぐねていた「わたし」にとって、一人の生活から抜け出すことは「書くことからの逃げ」でもあった。
自立した女性の前半と、自立心がグズグズに溶けていく後半の対比がスリリング。ホラーじみたラストにはのけぞってしまった。芥川賞作家は、こんなサイコパス的エンタメも書くんですね。
『人生は小説(ロマン)』
娘が消えた女性作家と、親権を妻に奪われた男性作家の十字路
冒頭は村上春樹氏も受賞したカフカ賞を、ニューヨーク側の主人公で作家のフローラ・コンウェイが受賞したという記事。彼女のその自宅から3歳の娘が突然消える。一体何が!? 舞台はパリに飛んで、45歳の作家ロマン・オゾルスキの苦境が語られる。彼は離婚係争中で息子の親権を妻に取られそうなのだ。
本書を喩えるなら、ミステリー発、小説観や小説の書き方経由、1回ヒネってエンタメ的大団円、というメビウスの帯。楽しめますよ~。
『関東大震災 その100年の呪縛』
災害を「自然現象」ではなく「社会現象」と捉える視座
今年は「関東大震災100年」。犠牲者は史上最悪の10万人以上にのぼった。災害死以外にも大杉栄と伊藤野枝が官憲に殺され、流言で朝鮮人が虐殺され、出自を怪しまれた四国の一団も殺された(公開中の映画『福田村事件』)。本書は関東大震災後の情動=「郷愁」「日本回帰」「精神(優位の)復興」に触れ、東日本大震災でも同じだったとする。これが100年の呪縛。災害を諦観のにじむ自然現象ではなく、社会現象として捉える視座の必要性にハッとさせられる。