スタイリスト青木貴子さんによる、素敵な人に一歩近づく生き方指南。こんな時代だからこそ、前を向いて歩いていくためのヒントをお届けします。
反比例する知識欲
新しいことを知ると嬉しいですよね? ひとつ知識が増えるのって、楽しい。だんだん歳を重ねるに従って、それは「喜び」とさえ感じられます。いやいやながら勉強をさせられていた子供の時って、こんな気持ちになれなかった。あの頃から知る=楽しいという感覚になれていたら、とっても博学になれたのに! みなさんも大人になってからこんなふうに思ったこと、あるんじゃないでしょうか(笑)。
生まれてから、長くて社会人1、2年生くらいまでは周りがいろんなことを教えてくれるけれど、大人になると人から自動的に何かを教えてもらう機会は減ってきます。それはやっぱり大人同士の付き合いになると「関係ない人は関係ない」って感じにもなるし、「相手もいい大人だから教えるのも微妙だし」と思ったりとか、何かと関係が希薄になりがちだから。求められてもいないのにわざわざ気付きや知識を教えようという奇特なひとも滅多にいないですし(ちなみに奇特「きとく」は、非常に優れていて、褒めるべき様のこと)。
そうなんです、大人になると知識を得る喜びは感じられるようになるのに、自動的に知識を与えられる機会は減っていってしまうのです。悲しいかなの反比例。これを打破するには自らが行動的になるしかないのです! 逆を言えば求めていけば得られるってことですけどね。
知る+行う=知識になる、という法則
ところで「知行合一(ちこうごういつ)」という言葉を知っていますでしょうか? これは「知ると行うを一つにすること、知識は行動を伴ってこそ初めて完成される」という意味。知識だけがあっても実感や体験が伴わなければ知らないと同じ、とも取られられる言葉。
この「知行合一」は中国の明代の王陽明が起こした学問である「陽明学」の命題のひとつ。確かに知っているつもりでも本当に体験したりやってみると全く違った印象に転じることってあります。むしろ変わることの方が多いかもしれません。
知って、行動が伴って、初めて知識になる。「行動が伴う」と「知っている」が「理解している」に変わるということなのです。
実は最近、このようなことを実感する出来事がありました。学生の頃から何度となく行っている神保町は、質の良い古書を扱う街として全国的に有名です。もちろんその認識も興味も十二分にありました。けれども「どの店に入ればどんな本があるのか」とか、勝手に敷居が高いイメージを持っていたので「どんな流儀で回ったらいいのか」がわからないといった理由で二の足を踏んで早うん十年、つまり神保町の真の魅力を知らないまま過ごしていました。そんなおり、神保町に精通している方と古書店を回る機会に恵まれたのです。
誘われて足を踏み入れると、そこはなんともワンダーランド的な魅力に溢れていました! 敷居も全く高くなく、手にとって見たい本も多数あり「えー、こんな楽しいところだったの!?」という印象に。神保町の古書店が面白いという話は知っていたけれど、その真の素晴らしさは体験を通して初めて知り得ることができたのです。長年この面白い場所を素通りしていたなんて、なんというもったいないことしてたんだろうって思いました。
成長を邪魔してしまう、知っている“つもり”
私の体験はほんの一例ですが、知っているつもりで、その“実”を知らないことって多々あると思います。“実”を語れないことは人に話をするときに説得力を持たないし響かない。そう、だから知っているつもりは知らないよりかえってタチが悪いんじゃないかと思います。つもりが邪魔をして本当の知識にならないのはもったいないことです。
大人になると自動的に知識を与えてもらう機会は減ると前述しましたが、求めていけばまた話は違います。
私がおすすめしたいのは、知識を得たい分野において造詣(何かの分野に対する、広い知識や理解)が深いひとにレクチャーしてもらう方法。私の神保町のくだりのように、そこに詳しいひとにどうしたら楽しめるか、どこに行くべきかなど教えてもらったり、実際叶うならば連れていってもらう。例えば経済学を勉強したいなら経済学に詳しいひとに良き本を薦めてもらう、宝塚に興味があるならご贔屓を応援して足繁く公演に通っているようなひとと一緒に舞台を見に行く、等です。
ここで肝心なのはそのことを心底好きなひとに教えてもらうこと、なぜなら知り得る情報量や熱量が圧倒的に違うからです。熱く語られる話って、興味深くすーっと入ってきます。
何かに詳しいひとに出会ったら、食いついてみる。すると新しい知識を得られる良い機会に恵まれます。興味を持つ、深く知る、行動する。「知っていること」をもうひとつ上の段階の「知識」に変えてゆけたら、ひととしての魅力の幅もぐーんと広がること必至デス!
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