日ごろから“言葉”についてあれこれと思いを巡らせている壇蜜さんの連載『今更言葉で、イマをサラッと』第34回目。言葉選びと言葉遣いが、深く、楽しくなる。そして役に立つお話。どうぞお楽しみください!
その34『さようなら』
幼少期や思春期に仲間外れにされた経験もあるし、無視されたこともある。そのせいか寂しさに対してはある程度の免疫がある。寂しい思いをした分寂しがりになるパターンもあるが、「寂しがっていると気づかれたら更に惨めな仕打ちを受ける」と危惧する方だった。なので寂しいという感情を徹底的に殺した。今も私のなかで寂しさは強く出てくる気配はない。寂しいヤツだと言われても自分がそれでいいならいいじゃないか、という結論に達した。この先どうなるかは分からないが、自己完結する力は養っていきたいものだ。
そんな私だが、「さようなら」と締めくくられると少ししんみりする。元々は「そうであるならば」と言われていた接続詞。そうであるならば・・・の後に「行ってきましょう」とか「私はここで休むとしましょう」といった言葉が続く。そのうち別れ際の言葉として「そうであるならば(さらば、も略語として登場しつつ)・・・また会いましょう」のように使われることになる。そして「さようなら」はその後に続く言葉を略すようになり、別れるときに誰もが使える万能な言葉に進化して今に至る。
さようなら・・・今生の別れを突きつけられた気がするのは何故だろうか。苦手な奴でも「さようなら」と言われると勝手に締めくくるなんてさぁ、とふくれそうになる。もしかすると、こんな変な感情になるのは私の前職が関係しているのかもしれない。亡くなった方々を見送る仕事で「さようなら」の重みをより強く感じてしまい、それが今も影響している気がしてならない。当時の現場での「さようなら」は本当にもう会えない別れの言葉だった。だからこそ、生きている者同士の間で頻繁に使わないように無意識に「さようなら抑え」をしていたのかもしれない。そして今も・・・。
別れ際、もう会えないかもしれないと分かっていても「元気で、ありがとう」「どうか忘れないでね」と手をふるようになったし、また会える場合は「ありがとう、後ほど」「ごきげんよう」と言うようにしている。私は今のところ寂しがりではないが、「さようなら過敏症」であることは認めよう。