吉田修一氏の短編小説「逃げろお嬢さん」を映画化した本作で、井口理さんが演じるのは、長年推し続けてきた元アイドル・鮎川舞子を守ろうと奔走する康太。推しとファンの関係を描きながらも、その本質は“誰かを信じ抜くこと”にあると井口さんは語る。SNSが当たり前になった時代だからこそ、人と人が直接向き合うことの意味とは何か。作品が持つ魅力から、俳優業への向き合い方の変化まで話を聞いた。
「信じ抜く」ことの物語

映画『逃げろお嬢さん』は、元アイドル・鮎川舞子と、長年彼女を推し続けてきた康太の出会いからスタートする。脚本を読んだ際、井口理さんがまず惹かれたのは、その関係性の描かれ方だったという。
「最初に原作を読ませていただいたんですけど、やっぱり印象的だったのはアイドルとファンの関係性でした。世間一般的にいうと、アイドルってすごく神格化された存在。この作品は康太と鮎川舞子という存在が、どう重なっていくのか、どうリンクしていくのかがすごく魅力的だなと思いました。全然違う人生を歩いてきたふたりが出会ったことで、その関係がどう変化していくのかを楽しみにしてほしいですね」
井口さんが演じる康太については、「今どき珍しい青年」だと表現する。
「舞子とはまったく違うベクトルで生きている人なんですよね。世間のしがらみだったり、SNSだったり、そういうものから解放されていて、すごくピュアな人間なんです。そういうピュアさをちゃんと表現したいなと思っていました」
人生の大事なタイミングにいてくれた人

本作の大きなテーマのひとつになっているのが、推しを“信じ続ける”こと。井口さんは、この作品を単純な“推し活映画”として捉えてはいなかった。
「今回の作品は、『一度信じた人を信じ抜く』という話だと思うんです。ファンとアイドルという枠組みを超えて、昔お世話になった人だったり、今は会わなくなったけど大切だと思える人だったり、誰にでもいるそんな“誰か”の話なんじゃないかなって。『推し活』という表現は世の中にありますが、観終わった後に『そこが一番大事なことじゃなかったんだな』と思ってもらえたらうれしいですね」
実際、井口さん自身は熱狂的なファン気質を持ち合わせていないという。
「もちろん好きな作品や好きな音楽はありますけど、人というと難しい……。正直に言うと、画面越しに見た“その人”の何が分かるんだろうって思う部分もあって。会ってみて、『めちゃくちゃいい人だ』と思うことはあるけれど、その人のパーソナルな部分まで最初から知っていたかと言われると、そうではないんですよね」
だからこそ、本作で描かれる関係性に惹かれた。
「僕の願望も入っていると思うんですけど、ファンとか推しとか、そういうことじゃなくて、ひとりの人間として向き合う話なんです。どんな人でも、抱えているものがあって、悩みがあって。結局は人と人なんだよね、ということが伝わったらいいなと思っています」
スキャンダルの渦中にいる舞子が目の前に現れても、康太は知らないふりをして手を差し伸べる。なぜ康太はそこまで舞子を信じ続けることができたのか。井口さんは、その理由を「人生の大切な瞬間にいてくれた存在だから」だと考えている。
「舞子は、康太にとってものすごく大事な存在なんだと思うんです。会ったことはなくても、自分が辛いときに支えになってくれた人だから。たとえば、就活のときにアドバイスをくれた先輩とか、苦しいときに優しい言葉をかけてくれた友達とか、人生のなかで大事なタイミングにそばにいてくれた人っているじゃないですか。舞子もそういう存在のひとり。だから、その人を救えなかったら、自分の存在まで否定してしまう気がするんですよね。お世話になった人を無下にしてしまったら、自分自身が良くない人間になった気がしてしまうというか」
世間が疑いの目を向けても、自分だけは信じていたい。その純粋さこそが康太という人物の核。
「極端な話、信じ続けていたら裏切られることってないと思うんですよ。事実がどうかは別として、『信じたい』という気持ちそのものはなくならないので。その感覚が康太のなかにもあるんじゃないかなと思います」
「僕のことも、あなたのことも、ひとりの人間として見たい」

もし自分が康太のように、憧れてきた存在と実際に出会ったらどうするだろうか。そんな質問に対しても、井口さんの答えは一貫していた。
「僕は相手が総理大臣でも、政治家でも、スポーツ選手でも、普通に話したいなって思っています。そう心掛けているつもり。もちろん成し遂げたことはすごいと思うけれど、それと人間性が直結するかって言われたら、そうじゃないと思うんです。だから相手が誰であっても、ひとりの人間として接したいですね」
実際、井口さんはアーティストとしてファンと接する立場にいる。しかし「特別な存在として見られる感覚」には今でも不思議さがあるという。
「街中で出会ったファンの方からサインをお願いされたりしますけど、正直、僕はあんまりそういう感覚が分からないんです。実は、作中で康太が舞子に気づくシーンは、撮影していたホテルの近くで遭遇したファンの方の姿をヒントにさせていただきました」
アーティストとして、そして俳優として、多くの人に見られる立場だからこそ意識していることもある。
「昔は奇行みたいなことをして目立てばいい、それで売れればなんでもいいやと思っていました。でも結局どこかで歪みが出てくるんですよね」
パブリックイメージと本来の自分。そのズレに苦しむ舞子の姿にも、どこか通じるものを感じていた。だから最近は、「思っていないことは言わない」ことを大切にしている。
「こういうインタビューもそうですけど、嘘をついたら伝わるものも伝わらなくなると思うんですよ。だから最近は、思っていないことをできるだけ言わないようにしています」
もっとも、自分の思いやこだわりがすべて伝わるとも思っていない。
「良くも悪くも、自分が伝えたいことって思ったように伝わらなくて。すごくこだわって歌った歌でも、伝わらないことはあるし。それでも、伝えたい部分は届けようとしていくし、伝わらなくてもいい部分は自分のなかにしまっておけばいいと思っています。その点、今回の映画は、その“伝えたい”という意識がすごく強い作品でした。でも説明的になりすぎてもいけない。その塩梅はすごく考えましたね」
アーティストと俳優、その境界線

井口さんは本作を現代のSNS社会へのカウンターのような作品だと捉えている。
「最近のSNSって、正直気持ち悪いですよね。もともとそういう側面はありましたけど、今はさらに強くなっている気がしていて。お金が稼げるから過激な発言をするとか、本音がどこにあるのか分からないことも多いじゃないですか。一方で、“発信しないと思っていない”と判断されるのも居心地が悪くて、ここ数年は距離をとっています」
そう率直に切り出した井口さんは、SNSがより過激さを求める場所になっていることへの違和感を語る。だからこそ、劇中で描かれる康太と舞子の関係に大きな意味を感じていた。
「全然違う場所にいたふたりが会って、話して、お互いを理解していく。それが、今の時代だからこそ、すごく大切なものを拾い上げている気がしていて。僕自身も、この作品をやっていてすごく腑に落ちた部分がありました」
SNSでの評価やイメージではなく、ひとりの人間として向き合うこと。その価値を改めて感じたという。
「会って話したら、今SNS上で燃えている大抵のことは解決する気がするんですよね。もちろん合う合わないの相性はありますけど。人と人が出会って、話すことで、きっと何かを受け取るし影響を受けますよね。僕はそれこそがすごく大事だと思っています」
伊藤ちひろ監督とは3度目のタッグとなり、俳優としての向き合い方にも、少しずつ変化がある。当初は、ミュージシャンとして活動しながら俳優を続けることに、どこか肩肘を張っていたという。
「前は意固地になっていた部分もありました。ミュージシャンをやりながら俳優もやるって、『そうあった方がいいんだろうな』とか、『もう後に引けないな』とか(笑)。そういう気持ちに囚われていたんです」
しかし今は、その感覚が変わった。
「現場って基本的に初めましての人だらけじゃないですか。でも、プライベートな話をするわけじゃないのに、お芝居を通して心で会話しているような感覚があって、芝居が会話になるっていうか……。そんなカッコいいことを言いたいわけじゃないんですけど(笑)、普通にそれが楽しいんですよね」
アーティスト活動と俳優業。以前はふたつの仕事が互いに影響し合っていることを語る機会も多かった。
「前はよく『両方が循環しています』みたいなことをカッコつけて言っていた気がするんですけど、最近は純粋に現場が楽しい。たとえば、誰かと芝居して楽しかったとか、アジアツアーでお客さんがすごく盛り上がってくれたとか。そういう“うれしいサプライズ”みたいなものを楽しみに仕事をしている気がします」
かつて抱いていた欲も、少しずつ薄れてきたそうで。
「前はもっと、どう見られるかとか、どう評価されるかとか気にしていたんです。でも最近は、そういう欲がどんどんなくなってきた。もちろん評価されることはうれしいんですけどね。今は、今日の掛け合い楽しかったなとか、それぐらいのささやかなことで満足できるようになってきたんです」と笑う。
ミュージシャンでも俳優でもなくて、その前にひとりの人間として誰かと出会い、会話し、何かを感じること。その喜びが、今の井口さんを動かしているのかもしれない。
【10月2日公開】映画『逃げろお嬢さん』

出演/井口理(King Gnu) 深川麻衣 ほか
原作/吉田修一「逃げろお嬢さん」(『逃亡小説集』所収・角川文庫/KADOKAWA刊)
監督・脚本/伊藤ちひろ
配給/NAKACHIKA
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井口理(いぐちさとる)
1993年10月5日生まれ、長野県出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。唯一無二の世界観を築きあげているバンド・King Gnuでボーカルとキーボードを担当。近年は俳優としても活躍し、映画『劇場』、『佐々木、イン、マイマイン』、ドラマ「MIU404」(すべて20年)、『ひとりぼっちじゃない』(23年)、舞台『キャッシュ・オン・デリバリー』などに出演している。また、出演するドラマ『LOST10』が10月よりスタート。
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