さまざまな経験、体験をしてきた作詞家の小竹正人さんのGINGER WEB連載。豊富なキャリアを通して、今だからわかったこと、気付いたこと、そして身の回りに起きた出来事をここだけに綴っていきます。【連載/小竹正人の『泥の舟を漕いできました』】
「自然体とほっこり」
以前この連載で、日々における私の主な交通手段が電動アシスト付ママチャリ(しかもチャイルドシート付)だと書いたのだが、先日実際に私が自転車を漕いでいる姿を偶然目撃した知人から、「小竹さんって自然体でいいですね」とよどみない優しい笑顔で言われた。もちろんその人は本気でそう思って言ってくれたのだが…。モヤッ。
私は若いときから、「自然体」という言葉がものすごく苦手である。最近はあまり耳にしなくなってきたが、この言葉は主に平成の時代に、さも輝かしい言葉かのように多用されていた。
昔、美人でサバサバしていて、主に女性たちから支持されていた某著名人が雑誌のインタビューで、「今まではどこか肩肘張っていたんですけど、今はすごく自然体の自分になれています」と、イキイキ意識改革発言をしていた。私はこの人をメディアで見かけるたびに、「なんか無理して笑ってる感があるよなあ」と感じていたので、その記事を読んだときに妙な違和感をおぼえた。
そしてその数年後、雑誌で再びその人のインタビュー記事を目にする機会があり、読まなきゃいいのにうっかり読んだら、またまた「ここ数年、ずっと長いトンネルの中にいたけれど、やっとそこから抜け出して自然体の自分として毎日を過ごせています」的なことが書いてあった。出た~!自然体~!!と、今度は違和感ではなく、一体あんたはどんだけ自然体劇場を繰り返すんだい?と、イラっとした。
これまた別の人なのだが、世間で「自然体代表」のように言われていた人に実際に会ったときに、すべての話題に関してあまりにも上から目線の発言をしてくるので、「あんたは私の上司か師匠ですか?」と、私の自然体イメージ嫌悪に拍車がかかった。
自然体って、「あるがまま素直に、無理をせずに気負いなく」みたいなことだと思うのだが、この言葉自体がどうにもこうにも嘘っぽく感じる。私なんて自然体になったら、誰にも会わずに風呂にも入らず、一生家で本を読んだりNetflixやYouTubeを見たりして、自然体=ただの人間失格。
そして私は、老若男女問わず、俗にいう「自然体で素敵な人」より、無理してもがきながらなさけない部分がうっかり漏れちゃっている人の方がずっと素直で人間らしくて好きだ。そういう人って他人の心の痛みに敏感な気がするし。
さて、もうひとつ。「自然体」と並んで、私が苦手な言葉がある。昨今、「自然体」よりずっと耳や目にするし、みんなが使っている「ほっこり」である。
しみじみするとか、優しい気持ちになるとか、ちょっと感動するとかの表現法として「ほっこり」が、こんなにもはびこり始めたのは一体いつからだ? これは誰がどうこうではなく、ただ単にその語感や響きが好きではないのと、私が気付かぬうちにあまりにも当たり前にみんなが使っているから、苦手というよりちょっと怖い。
私の書く歌詞は、ドロドロしているものが多いので(自虐含んでます)、あまり言われてこなかったが、最近エッセイを書く機会が増え、「小竹さんの文章を読んで気持ちがほっこりしました」なる感想をいただくことがたまにある。そのたびに、どうしよう、どうしよう、どうしよう、ほっこりさせてしまった!と、爪をガシガシ噛みたくなる衝動が。
ほっこり…それは私のようなひねくれ者が、汚してはいけない言葉なんですね、きっと。
健康的な日々を自然体で過ごしている方、穏やかでやさしい時間をほっこり過ごされている方、本当に申し訳ありません。これらは、ただただ私が個人的にどうしても馴染めない言葉たちなので、どうかご容赦を。
みなさんにはありませんか? 日常において、溢れんばかりに使われているのに、どうにもこうにも違和感のある言葉って。
What I saw~今月のオフショット
小竹正人(おだけまさと)
作詞家。新潟県出身。EXILE、三代目J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE、E-girls、中島美嘉、小泉今日子など、多数のメジャーアーティストに詞を提供している。著書に『空に住む』『三角のオーロラ』(ともに講談社)、『あの日、あの曲、あの人は』(幻冬舎)、『ラウンドトリップ 往復書簡(共著・片寄涼太)』(新潮社)がある。