さまざまな経験、体験をしてきた作詞家 小竹正人さんのGINGER WEB連載。豊富なキャリアを通して、今だからわかったこと、気付いたこと、そして身の回りに起きた出来事をここだけに綴っていきます。【連載/小竹正人の『泥の舟を漕いできました』】
「懺悔。ああ、ごめんなさい」
堂々と言わせてもらうが、私は20代くらいまでものすごく嘘つきだった。誰も傷つけないが誰も(もちろん私も)得をしない生産性のない嘘ばかりついていた。
自己肯定感が低かったわけでもなく、誰かの気を引きたいがための歪んだ承認欲求でもなく、嘘と笑顔を鎧にして、当たり障りなく、波風を立てずに生きるのが一番楽な生き方だと思っていたような…若さゆえのとんちんかんな思い込み。
嘘つきの名残りは作詞家になってからもちょいちょい顔を出す。
嘘がキーワードになっている歌詞がやたらとたくさんあるし、嘘ばっかりついていた男が‟もうこれ以上つける嘘がない”と恋人に告げる…という、これまんま私じゃん!?みたいな歌詞を三代目J Soul Brothersに提供したこともある。
そもそも、作詞家って職業自体が嘘つきに向いているのかも(開き直り)。
私はたまにインタビューや対談の依頼をいただく(顔出しなしでね)。しがない作詞家なのに、インタビューや対談を様々な媒体でやらせてもらえるなんて実にありがたいと思っているので、そりゃあもう熱心に語らせていただくし、予定の時間を過ぎても全然構わずに延長を快諾する。
しかし、あまりにもサービス精神旺盛な感じで長く話していると、インタビューされていることや喋ること自体に飽きてきて、質問に対してありもしない答えを返したりしてしまうときがある。「こんな感じの回答の方が読んでいる人は面白く感じるんだろうな」的な。さすが元嘘つきですね。ああ、ごめんなさい。
GINGER の編集長も昔、私が歌詞&エッセイ集『あの日、あの曲、あの人は』を上梓した際に、インタビューをしてくれた方のひとりだ。「こんなに楽しくて面白いインタビューはじめてでした」とインタビュー終了後に満面の笑みでいってくれた彼女にこの場を借りて謝ります。インタビューの終盤は、適当に面白おかしく嘘をまじえて答えていました。ああ、ごめんなさい。
さて、そんな私が今までについた嘘で最も懺悔したいものが両親への嘘です。
新潟に住む中学生だった私は休みともなると、東京の大学に進学した姉のアパートに泊まりに行っていた。
1980年代の東京(特に原宿)は、地方の中学生にはそりゃもう刺激的で魅力的で、私は「東京病」と両親に揶揄されるくらい東京が大好きだった。
ザ・アーバン!な感じはもちろんのこと、そこに住む人々の、他人にあまり干渉してこないちょっと冷たい感じが異様に肌に合ったのである。逆に田舎町特有の、親切でおせっかいな感じが私は得意ではなかった。
高校進学の際、そんな私は、絶対に東京の高校に行くと勝手に決めた。両親は、「高校から上京するなんて早すぎる」と反対。そりゃそうだよな。
で、私がとった解決策が、「高校入試にわざと落ちる」だったのである。
地元の高校入学試験当日、でたらめな答えを回答用紙に書き、両親には「緊張しすぎて全然問題が解けなかった」と落ち込んだ顔で嘘をついた。
模擬試験では合格判定A、中学の担任教師にも「絶対合格しますよ」と太鼓判を押されていた高校にまさかの不合格だったもんだから、私の両親は今まで見たこともない顔で落ち込んでいた。
両親が他界した今でも、あのときの父と母の顔を思い出すと、やりきれなくなる。とんでもない親不孝。ああ、ごめんなさい。
そこから紆余曲折あり、まんまと東京の高校に進学した私は、このこと(わざと入試に失敗したこと)は絶対に誰にも口外しないでおこうと決めた。
数十年が経ち、先日姉にことの真相を話したら、それはもう目が飛び出さんばかりに驚いて、「あのとき、両親が元気なくて家の中がものすごく陰鬱な雰囲気だったよね」と苦い顔で言った。ああ、ごめんなさい。
けれど、あのまま新潟の高校に通っていたら、私は、セーラーズでバイト、芸能活動、アメリカ留学、その全てを経験できていなかったと思う。おそらく作詞家という職業にも就いていなかったはずだ。だからあの高校入試事件のことを「嘘も方便」と、草葉の陰にいる両親には思っていてほしい。
ああ、ごめんなさい。
What I saw~今月のオフショット
小竹正人(おだけまさと)
作詞家。新潟県出身。EXILE、三代目J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE、E-girls、中島美嘉、小泉今日子など、多数のメジャーアーティストに詞を提供している。著書に『空に住む』『三角のオーロラ』(ともに講談社)、『あの日、あの曲、あの人は』(幻冬舎)、『ラウンドトリップ 往復書簡(共著・片寄涼太)』(新潮社)がある。