本当は興味津々なのに、決して踏み出せない――芸人 紺野ぶるまさんの自分観察。【連載「奥歯に女が詰まってる」】
面白くてモテない女
「おもしれえ女…」が流行ったのはいつのことだっただろうか。
ライバルたちが男に媚びる中一人だけ「はあ?! あんたのことなんて好きになるわけないでしょ?!」
「お金なんていらないわよ! 私が大切なのは家族と友達だっつーの!」とあっかんべするやつである。
普段モテてる男が受けたことない扱いに驚き、その女の存在が気になり出して最終的に追いかけているという夢のある展開だが、残念なことにこの場合においての面白いはお笑い的要素ではない。
「変化球」とか「新鮮」などという意味である。
お笑いに人生を賭けている女をたくさん知ってる身からすると「面白い女がもてるわけない」のだ。それは仮に女芸人でなくてもそうだ。面白い女はモテない。
まず面白くなればなるほど男性と話が合わなくなる。そもそも面白い男性というのがごろごろいるわけじゃない。
「俺、お笑い好きなんだよね」という人はごろごろいるが、お笑いが好きイコール面白いわけではないし、関西弁イコール流暢なわけでもない。お笑い好きという人に面白い人はあまりいない。面白い人はそんなハードルを上げる行為をわざわざ自分からしないから。
こちらが面白い話をしようとも基本は「自分なかなかおもろいやん」となぜか審査員目線か、自分より女が面白いことをよしとしないからこちらが話を落とすことを喜ばない。
男が言う「面白い子が好き」は、「よく笑う子」とか、いじりがいのあるサザエさんみたいな「ドジっ子」とか、あくまで漫画の中の「おもしれえ女」の範疇で、一発で落とす大喜利力とかエピソードトークにおけるオチを予想させないフリなど一切求めてない。むしろさ〜っと引いていくのである。
あの時の男の顔を見てると、学生時代の「女子の水泳の時の息継ぎの顔見てられないわ〜」とか「体育で全速力で走ってる女子見ると冷めるわ〜」と言っているのを思い出す。
その度に「いやいや女子のあの時の顔が一番面白いだろ!!!! 二度と面白い子が好きとかいうなよ」と喝を入れたくなる。
面白い女というのは面白い男が好きだから、結局は芸人が一番いいのだがそうそう出会うものでもない。求めているのは経済力でもイケメンでもなく、「面白い」の一点張りなのになかなか出会えない苛立ちがある。出会いの場で面白くない男を見るたびガッカリして、もう帰りたいのである。
これは私の持論だが、結局面白い女が求めるほどの面白さを持つ男というのは待っていても現れない。モテないというより、需要と供給のバランスが圧倒的に悪いのだ。
だけど面白い女は面白い自分を変えられない。それが生き方だし、いやなことも全て話して笑ってもらうことに美学を感じているから。
こういう女が顔とか雰囲気などの惰性で男を好きになったときが一番厄介で、ちょっと見られ方を意識して面白いところを発揮できなくなるから、本人も生き生きしない。魅力は半減。楽しい雰囲気は出せても、どこか表面上で飽きられてしまう可能性が高い。
じゃあどういう人がいいかというと、“私”の面白さを最大限に発揮できる相手ということになる。
カラオケで酔って踊り狂って帰って気絶してても引かずに介抱してくれる人、道化に徹して疲れて八つ当たりしても次の日「え?! あれ、おれディスられてたの!?」とスルーしてくれる人。
つまりはダメなところも愛してくれる人ということになる。
その上で変顔を可愛いか可愛くないかで判断せず、面白いか面白くないかでジャッジしてくれる人、人生において大切にしてる友達や仕事を全肯定してくれる人。
最初は「全然面白いこと言わないまたいつものつまんねえやつか」と気に止めてなくても、「あれなんだこいつ…なんか変だぞ」となり、「なんでこいつこんななんでも受け止めてきやがるんだ?」とメンタルの強さを不思議に思い、気づくと「ふん、おもしれえ男」となっているのである。
「おもしれえ男」に出会ったらこれまで相手に求めていたようなお笑い力は全て諦める必要がある。
「おもしれえ男」は天然の可能性が高いから、その辺はゼロに等しい。
だが、その稀有さを面白がれてこそ真の面白い女というもの。極論本当に面白い人というのは相手に面白さなど求めないから。
イケメンや経済力のある男に引かれようが、己の持って生まれたユーモアという名の特殊な能力を死守し、自分を愛せたものだけが面白い女になれる。自分もそうでありたいと日々思うが、未だかっこいい人を前にする度、その刀をしまおうとする自分にガッカリする毎日なのであった。
最後に
お笑い好きを豪語する男の話とかけまして
それを聞かされる女と解きます
その心はどちらも
絶対にオチないでしょう
今日も女たちに幸せが訪れますように。