さまざまな経験、体験をしてきた作詞家 小竹正人さんのGINGER WEB連載。豊富なキャリアを通して、今だからわかったこと、気付いたこと、そして身の回りに起きた出来事をここだけに綴っていきます。【連載/小竹正人の『泥の舟を漕いできました』】
「青春」
一緒に過ごした歳月があまりにも長すぎて、思い出があまりにも多すぎて、あの日からずっと、ひとりになると彼女のことばかり考えている。
初めて会ったとき、彼女は15歳で私が18歳。
私たちはお互いに人見知りで無口だったけれど、導かれたように出会った何人かの気の合う仲間と共にたくさんの楽しい時間を過ごした。
彼女との初対面から数ヵ月後に私はロサンゼルスに留学してしまったのだが、夏休みや冬休み、私の一時帰国が「集合!」の合図となり、彼女(その頃にはもうスーパーアイドルになっていた)を含むその仲間たちとの関係はどんどん深いものになった。
あまりにも忙しすぎて普通の青春を送れなかった彼女は、大人になってから「あれが私の青春」と満足そうに言った。
私が在米していた約8年間、彼女は仕事やプライベートで多々ロサンゼルスに来ていたので、私たちはものすごく頻繁に会い、自然ときょうだいみたいな関係になっていた。
仲間たちは大人になるにつれ、皆それぞれの道を見つけ、全員で集まる回数がどんどん減ったが、それでも私と彼女は10代から30代まで、ことあるごとにいつも一緒にいた。
周りも自分たちも、その関係性を「親友」と称していた。
日本に帰国して、作詞家としての一歩を踏み出して以来、私は彼女の歌詞を何曲も書き、何曲も共作した。
作詞家・小竹正人は、歌手・中山美穂に場数を踏ませてもらい、育ててもらったのだと思う。
あまりにも公私ともに一緒にいたので、彼女のファンクラブ会報に「おだちゃんコーナー」なるページができて、私は毎号、彼女との交流をそこに書き綴っていた。そこで、エッセイを書くことの楽しさも知った。
彼女がパリに移り住むまで、そのコーナーは何年も続いた。
いちいち書いていたら一生終わらない、それくらい彼女は、私の人生で欠かせない存在。
自分を開放することがとても苦手だった私たちは、やがて人見知りを克服しながら逞しくなり、30代の後半からは、それぞれが別の場所で幸せに生きていた。
もちろん連絡はとっていたが、昔と比べると会う頻度は激減して、約束ばかりが増えた。
私は現在自分がいる場所から、過去に引っ張られることが少し怖かったのかもしれない。
いつからだろう、私たちはお互いの名前を呼び合うのではなく、「あんた」と呼び合っていた。
久しぶりに会うと、「久しぶり」とか「元気?」の代わりにいつだって「あんた!」が第一声だった。
最後に会ったときには、私が作詞で賞をもらったことを「あんたぁ、ホントによかったね」と目に涙を溜めて言ってくれた。
すごく大切なことをたくさん教えてもらったのに、ありがとうもごめんねも言えていないから、今はただ無性に彼女に会いたい。会いに来てほしい。
中山美穂は本物の天使みたいな人でした。
※先月、この連載を湿っぽいものにしたくないと書いたのにもかかわらず、全然整理できない喪失感を書き綴ったこと、許していただきたい。
What I saw~今月のオフショット
私がアメリカに留学した年、ニューアルバムのCDと共にこの写真とカードが彼女から届いた。これを大学のファイルに入れ、お守りのようにして勉強に励んでいた遠い昔。まだインターネットが普及していなかった時代に彼女から届いた何十通もの手紙は、私の宝物です。今はまだ読み返すことができません。
小竹正人(おだけまさと)
作詞家。新潟県出身。EXILE、三代目J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE、E-girls、小泉今日子、中山美穂、中島美嘉など、多数のメジャーアーティストに詞を提供している。著書に『空に住む』『三角のオーロラ』(ともに講談社)、『あの日、あの曲、あの人は』(幻冬舎)、『ラウンドトリップ 往復書簡(共著・片寄涼太)』(新潮社)がある。