妹尾ユウカさんの人気連載『マテリアルガールは休暇中』。今回は、大ヒット映画『国宝』を観て感じたことを言語化してくださいました。なぜ、あの映画はここまで人の心をつかむのか――。その答えが、ここにあります。ぜひお楽しみください。
何かを極めることは、本当に幸せか?
先日、友人に勧められて、ようやく映画『国宝』を観た。彼女から事前に聞かされていたあらすじからは、「努力は必ず報われる」といった王道の成長物語を想像していたのだが、実際に描かれていたのは、それとはまるで異なる内容だった。
鑑賞後には、思わず「吉沢亮がエロいこと以外、何ひとつ合ってなかったよ」と、軽くクレームめいたLINEを送ってしまったほど、想像とはまるで違う世界が広がっていた。
映画『国宝』は、「努力は必ず報われる」とか「夢は叶う」といった、耳ざわりの良い希望を差し出す作品ではない。むしろこの作品は、「何かを極める」ということが、どれほど孤独で過酷で、静かに人間らしさを削り取っていくかを描いている。
そして、こう問いかけてくる。
「何かを極めることは、本当に幸せか?」と。
ちなみにこの投稿は、何としてでも日本国民全員に映画館へ足を運んでもらうべく、ネタバレは一切含まずに書いている。だからどうか、安心して読み進めてほしい。
歌舞伎という世界に生きる主人公(エロい吉沢亮)は、己の人生すべてを“芸”に注ぎ込み続ける。その姿を見れば、「本気で夢を追う」ということは、選択肢を広げることではなく、削っていくことなのだと分かる。
人生におけるさまざまな可能性を手放し、ただひとつに絞り、それだけを何十年とかけて磨き上げていく。その過程で、人生はどんどん尖っていく。夢にも近づいていく。そしていつしか、彼自身が誰かの“夢”になっていく。
けれどその鋭さは、他人を打つばかりか、いずれ自分自身の胸をも刺してしまう。
芸を磨くということは、時に自分を殺すことと紙一重なのかもしれない。たった一点を握りしめて生きる覚悟がなければ、「極める」という道は歩けないのだろう。
華やかな世界の裏側に潜む、冷たさや孤独。その緊張感が、どんなシーンでも美しさを失うことなく画面にずっと漂っていた。
特に私が胸を打たれたのは、主人公(めっちゃエロい吉沢亮)が持ち続けていた、「どんなときも芸だけは手放さない」という強い意志。
不貞腐れてやめてしまうには十分すぎる理由を抱えながらも、芸だけは決して離さず、ただひたすらに続け切る。
才能の正体とは、きっとこういうことなのだろう。そんなふうに思わされた。
何かを極めたいと願うならば、手放すもの、失うもの、傷つく覚悟が必ずセットになっている。映画『国宝』はそれを真正面から見せてくれた。
美しいものはすべて痛みを孕んでいる。それをあらためて教えてくれる作品だった。
最後に、まだ観ていない女たちへ忠告しておきたい。数日前の私のように、「横浜流星の方がタイプだな~ん」などと油断して映画館へ足を運ぶと、エラい目に遭うから気をつけろ。横浜流星への免疫だけを携えて『国宝』を鑑賞するのは、あまりに無防備で危険だ。
吉沢亮の艶やかさは、我々の想像を遥かに超えてくる。あの日以来、私は"吉沢亮"という文字を見るだけで煩悩が湧く後遺症と闘っている。だから、こうして書いている今も辛い。
ちなみに、映画を観たあとに原作も読むと、喜久雄のすべてがあの艶やかな吉沢亮で再生されるので、「俊ぼんのお母さんの印象、全然変わるわ!」とか「おい、徳次いい奴すぎん?」などといった気持ちよりも、また煩悩が湧き出てしまって、辛くなります。いや、辛くなりんす。
映画本編は3時間もあるのですが、ショート動画の刺激により頭が腐っている私でも、まったく無理なく観ることが出来ましたし、別日に近所の井下さん(80)と観に行った祖母(84)も、「もう一度観たい!」と絶賛していました。
人生ラストスパートに差し掛かっている80代が、同じ作品に計6時間も費やすことをいとわない。そんな映画が他にあるでしょうか。
スティッチも最高でしたが、スティッチでは厳しいでしょう。
映画『国宝』を鑑賞するにあたって、歌舞伎の知識は一切不要です。ショート動画厨からおばあちゃんまで、誰一人として置いていかれません。
ただチケットを取り、上映前にはしっかりとお手洗いを済ませ、できるだけ大きなサイズの飲み物を買って、楽しんできてください。後遺症に悩まされる覚悟だけ、お忘れなく。
それでは、いってらっしゃい。