生き方も考え方も、多様性や共生が問われている昨今。作家・鈴木涼美さんに、最近話題になった職場でのたばこ休憩のある、なしについて、そして目に見えないレッテルや知らず知らずのうちに行われている排除の風潮について綴ってもらいました。
女子大に入学したばかりの女を装って新宿駅前でうろうろと歩き、勧誘してきたどこかの大学サークルの飲み会に潜り込む、というのはすでに自分の大学の新歓コンパは二年前に経験していた私と友人が思いついた、SNSのない時代のくだらない遊びなのだけど、勇み足で出かけた金曜の夜の新宿は想像以上の数のサークルが看板やチラシを用意してごった返していた。◯◯大学スキーサークルのようなものもあれば、大学を問わずに若い男女が集まって飲んでいるだけという感じの緩いイベントサークルもあって、男子は某有名大学限定/女子は大学名問わず参加可能などと謳っているところもある。私たちはなんとなく華やかなイメージのある女子大の名前を借りて新入生になりすまし、いくつも渡されるチラシを見比べて、「チャラすぎる」「地味すぎる」「バカそう」などと好き勝手に批評しながら歩き、結局声をかけてきた人が長身で声が低くてかっこいいという理由だけで、とある大学の体育会サーフィン部の飲み会に潜り込むことにした。会場に向かう途中、案内してくれる長身くんの後ろでこそこそと「いいのかな、サークルじゃなくて部活みたいだけど」「でも女は大学どこでも平気って言ってたし」などと話しながら、予定していたのとちょっと違う夜の行く末を色々と想像した。
結局、部活とは言っても年に一度の新歓シーズンにハメを外すという飲み会の性質はイベントサークルとさして変わらず、私たちは別に適当に言った女子大の詳細について聞かれることもなく、サーフィンへの熱い思いや志望理由を語らされることもなく、次々にテーブルを回ってくるサーフィン部員と話しながら楽しい時間を過ごした。最初に声をかけてきたイケメンは飲み会でも流石の人気者で、一緒にいた友人は彼が移動するたびに目で追っていたが、私は途中から別の人にばかり目が行くようになっていた。本格的に競技としてサーフィンをする部員たちはほとんど男子ばかりで、派手な上級生の女がいると思ったらマネージャーだったのだが、彼女の他に一人だけ女の部員がいて、金髪に近い色にまで脱色して傷んだロングヘアを一つにまとめ、ファンデーションは塗らずに濃いアイラインを引いて、騒ぐ男子たちにやや冷たい目を向けながら煙草を吸うその姿がやけにかっこよかったのだ。私はだんだん男子たちとの当たり障りのない会話に飽きて、たまたま空いていた彼女の隣にさりげなく移動し、たった一人の女部員って大変じゃないのかとか、いつサーフィンを始めたのかとか、そんな話を聞いていた。
彼女が吸っていたのは他の男子部員と同じセブンスターだった。セブンスターというと割と男の人っぽいイメージがあったけれど、思い返すと村上春樹『ノルウェイの森』にはマールボロを吸う緑さんの他にセブンスターを吸う女の人が出てきたよな、なんて思って、空になったソフトケースを片手でくしゃっとやる彼女を見ていた。それからしばらく私が吸う煙草は、当時出たばかりで気に入っていたルーシアからセブンスターに変わったのであった。彼女の姿への熱っぽい思いが消える頃に、やっぱりメンソールのが好きだなと思ってルーシアに戻したのだけど、その後もセブンスターを吸う女の人を見るとちょっとサーファーの彼女を思い出して、やっぱりかっこいいなと思う。
煙草を吸う大人になってからは色々な記憶と煙草が結びついている
煙草を吸い始める時や銘柄を決める時には案外大した理由はなくて、私も高校生の時に見た映画『月曜日のユカ』で煙草を咥える加賀まりこや『パルプ・フィクション』のユマ・サーマンに憧れて、こういう大人になりたいと漠然と思っていた、という以外に何か重大なきっかけや論理的に説明ができる理由があったわけもない。シャネルのチェーンバッグを肩に引っ掛けるとか、スタバのタンブラーを片手に電車に乗るとか、若い私にとってはそういったことと同じような生活態度として、自分の中に取り入れられていった。その代わり、煙草を吸う大人になってからは色々な記憶と煙草が結びついていて、大学で最初に仲良くなったナオコは同じ授業を受けて同じ喫煙所でサボっていた仲間だったし、ニューヨークの空港で喫煙所を探していたら間違えて変なドアを開けてしまって危うく飛行機に轢ひかれそうになったし、パリやバルセロナの路上で煙草を咥えていると色んな人に一本くれと言われた。特に新聞社にいた頃は喫煙所で上司や官僚など色んな人と話した記憶はとてもたくさんある。時にはそのような縁が仕事につながることもあった。
だからと言って、煙草は取材のマストアイテムです、というほど喫煙所発のスクープ記事を書きまくった訳ではないし、喫煙所ではなくとも上司と話す機会はあっただろうし、喫煙仲間と仲良くなった反面、非喫煙者の同僚には喫煙者特有の休憩の多さや服についた匂いなどによって煙たがられていたかもしれないし、トイレに行くよりも頻繁に喫煙所に行っていたので仕事のペースを乱していた可能性だってある。大体、ナオコとは煙草を吸わなくても結局は仲良くなっていたと思うし、飛行機には轢かれない方がいいし、パリで仕方ないから煙草一本あげた汚いジーンズのねえちゃんが巡り巡って私に恩返ししてくれる見込みは限りなく少ない。
小さな不満を口にすることがそれぞれの思想のすり合わせになる
だから私には、煙草吸わない方がいいよという人が並べる百の理由に対して、言葉と論理で対抗する術を持たない。言葉と論理で選び取ったものではないから、どうして吸っているのかなんて言われてもなんとなくくらいしか答えが思いつかなくて困る。先輩で煙草なかったら良い記事なんて生まれないと言っていた人もいたし、先日トークイベント会場の喫煙スペースで一緒になった大学の先生は煙草を吸うことによる濃密なコミュニケーションの重要さを説いておられたが、実際煙草を吸わなくても良い記事を書く記者はいるし、濃い人間関係を結べる人もいるだろう。時間的な効率や健康を考えて煙草なんて吸わない方がいいと言えばいい。虫歯や肥満のことを考えると甘いお菓子だって食べない方がいいし、肌のことを考えると化粧もしない方がいいし、カラオケやゲームなんて時間の無駄だし、お酒なんて危険だし、文学だって役に立たないし、子作り以外のセックスやキスは病気感染のリスクがあるし、服なんて数着あればお金の無駄だから買わない方がいいし、恋愛だって非生産的だ。
だけど少なくとも私は効率や論理で説明できることで人生を埋め尽くしてしまうのは寂しいし、近所の若者を見ていたって、言葉と論理で説明できることよりも、憧れや衝動によるスタイルの選択の方が人をワクワクさせるのはそれはそうだろうと思う。煙草を吸っていて良いことの一つは、やめなよとか無駄だよと言われるたびに反論に困り、その度にそういう無数の説明できないことによって人の生活は作られているのだと繰り返し思い出すことだろうか。逆に言えばその匂いや喫煙者の風貌に対して持つごく一般的な嫌悪感を、やたらと論理で説明して排除しようとする時、人は正しいものを愛するとは限らないというごく当たり前のことが思考回路からすこんと落ちてしまう人には結構出会う。
他人の趣味嗜好に口出しするなと寂しいことを言うつもりはない。人はいつだって理解不能なものを排除したくなったり、解説してみたくなったり、自分に理解可能な形に変えてしまいたくなったりするもので、その小さな不満を口にすることが、それぞれの思想のすり合わせをする、あるいはわからないものと共生する上で時には必要だと思うから。ただ、違うものやわからないものを排除しないで欲しいと言うために、なるべく自分の姿に嫌悪感を持つ人のいることを気に留めておくこと、その嫌悪感のうち、減らせるものや変えられるものは減らしたり変えたりすることは重要だと思う。あまりに少なくなった喫煙所にぎゅう詰めになって煙草を吸う人、そこからはみ出している人、その人と煙の密度を見ると、これでは相手の嫌悪感を募らせるという点で、幸福な共生には逆効果なんじゃないかと時どき思う。
自分の姿に嫌悪感を持つ人がいることを気に留め、嫌悪感のうち減らせるものや変えられるものは、減らしたり変えたりすることは重要