鈴木彩とひらりさ。30代後半、独身、会社員兼文筆家…そんな共通項をもつ二人の女性が〈恋愛〉について考えるために始めた往復書簡が一冊の書籍に。共感と気付き、刺激に満ちた新刊『いつか終わる恋愛の、人生への影響について』から、GINGER世代の生き方、考え方のヒントになるパートをピックアップしてご紹介!
共感を前提にすることの不毛

友達との間で繰り返される恋バナ。それぞれ考え方や判断基準、求めていることは異なるし、悩みや迷いにどういう結論を出すかも人それぞれ。誰かの恋愛に、他人が正誤や善悪はつけるのは難しいし、そもそも恋愛において万人共通の正解を見つけることは難しい。
それでも、人は誰かに自身の恋愛を語るとき、その持論、悩んだ末の結論、恋愛相手について語る評価にも、話す相手から「うん、わかるよ」という同意や共感を得たいと思ってしまう。そして、自分が逆に聴き手である場合は、『ここは同意してほしいのだな』と忖度して、求められているであろう言葉を口にしがちだ。忖度? 思いやり? 慰め? ——でも、それでいいの!?とモヤモヤした経験はないだろうか。
本書のなかには、そんなモヤモヤを取り除いてくれるヒントがあった。
ひらりさ 2025年7月 わたしの恋愛は傷つけるほどの距離にならない
ハロー、綾。
東京に帰る機上にいます。インターネットがないと、驚くほど執筆が捗る!
綾も出張お疲れ様。貸してもらった鍵でドアを閉めて、郵便受けから室内に落としておいたよ。冷蔵庫に、フォートナム&メイソンのシーソルトバターを入れておいた。帰ったら食べてね!
イスタンブールとパリを観光したあと、ロンドンの綾のフラットで1週間過ごし、先に出張に出る綾と別れた6月。旅って、読書が捗るよね。いろいろ読めたのだけど、バロウズの『クィア』が、特に心に響いた。ちょうど旅の直前、ルカ・グァダニーノが撮った映画版が日本でかかっていて、それが良かったので原作小説を買ったのだ。
映画版のポスターがエモさ爆発(キャッチコピーが「みっともないほど、君に触れたい」)だったから、観る前は、同じルカ・グァダニーノ監督作の『君の名前で僕を呼んで』のような、甘酸っぱくビターなボーイズラブを予期していた。でも、蓋を開けたら、アマゾンの奥地に伝説のテレパシードラッグを探しに行く冒険劇。映画の撮り方・見せ方の関節をぐにゃぐにゃと崩すような作品で、最高にクレイジーだった。
綾と1週間を過ごす、というのは、わたしにとって、アマゾン探検くらいドキドキすることではあった。日本の友人とだって、ここまで長く一緒に過ごしたことはない。粗相をしないか、緊張していました。でも、お言葉に甘えて良かった! 綾への理解が深まって、距離が縮まった部分と広がった部分がありました。
縮まったところは、綾にもわかりやすいでしょう。一緒にショーディッチ名物のベーグルサンドを頰張ったり、綾がふだん通っているマシンピラティススタジオで並んでワークアウトしたり、わたしの趣味であるバレエ鑑賞を一緒に楽しんだり。かたわらにいて体験を分かち合うことは、遠く離れて手紙をかわすこととはまったく別の感動をもたらしてくれた。綾の人生の色彩というか、手触りを知れた。
正直に言うと……、綾や周囲の人々のハイキャリアぶりに圧倒されたところもあった。日本語、英語のみならず、フランス語で原稿を書き、コールに出る綾。日々カンファレンス参加やイベント出演、ネットワーキングに忙しくしていたね。それでもちゃんと、恋人と会う時間も確保していた。2025年、ロンドンを舞台に『SEX AND THE CITY』が制作されるなら、綾に出演オファーが来るに違いない!
このように綾について書くのは、綾との間に線を引くためではない。綾は想像力があり、優しい人。この往復書簡では自分の第一言語を封印し、日本語を使って、わたしに寄り添ってくれている。でも、同じ言語を使い、同じ概念について話していても、同じ意味を摑み損ねていることが、ここまでたくさんあったんじゃないかと、一緒に過ごしてみて思った。綾はできるだけ、「わたしたち女性」という主語を意識しながら、わたしに語りかけてくれている。でも、「わたしたち女性」として語り合うことは、思っている以上に難しい。きっと、他人からは「わたしたち女性」にだいぶ見えているだろう、綾とわたしであっても。
たとえば、自由。綾は前回の手紙で、「プールの水面で輝く陽射しを眺めながら、平日の朝9時に豪華なミーティングをしている」ことを、そう評した。わたしは少し、抵抗を感じた。ずいぶん資本主義的な、典型的なイメージに思えたからだ。でも、綾の生活に入り込んでみたら、少しわかった。絶え間なく自己研鑽しながら激務をこなしてきた、綾たちのような人にとっては、まさに手に入れた自由の、象徴的なひとときだったのだろうと、腑に落ちた。本当に、綾にとっては、自由の実感だったのだ。
そんなあなたにとって「恋愛」が制御不可能性を持つとき──己にかかわる物質的・精神的・時間的な制御不可能性をストイックに(他人のせいにせずに!)克服してきたあなたにとっては──その原因はもう、自分ではコントロールしようがない、相手方による束縛や、関係や社会的外圧にあるに決まっている。
でも原因が外側にあったとしても。綾は、その外側を切り捨てるのではなく、そして外側への欲求をストレートに否定する人ではない。
「私の考えるフェミニズムの本質は、女性が自らの意思で自身の人生のあり方を選び取ることであり、それを制約している社会の仕組みや偏見を批判することだ。」
「自らの意思で選び取ること」と「(個人以上に)制約の仕組みや偏見を批判すること」の連続が、フェミニズム。フェミニズムの、とても端的な説明で、「自分もそう思う」と応えるフェミニストは多いだろう。
ただ、そこに、いろいろな注釈がつき、それを通じて個人の経験があらわれるのだとわたしは思う。綾の場合、「決して恋愛を否定したり拒否したりすることではない。」という部分が、とても綾らしい。わたしが注釈をつけるなら……、「ただし、すでに自分の意思や感情だと思っていることは、社会の規範に則って評価されたい欲望に裏づけられている可能性が非常に高いので、注意せよ」だ。わたしって、承認欲求と欲望のかたまりだから!
だから、綾がバトラーだったらこう論じるだろうという「愛でさえも、純粋ではなくて社会的圧力や期待によって汚染されている」のほうに、強く共感するということだね。わたしは、わたしの「恋愛」を否定しているのでも拒否しているのでもない。ただ、疑っているのだ。
「男性と恋愛すること自体を手放すと言うとき、それによって拒絶しているものは、本当は何? ひらりさが拒絶しているのは恋愛でもないし、異性愛でもないと思う。自由を束縛する関係だ。」
わたしが「男性との恋愛を手放したい」と言うとき、男性との恋愛によって「縛られること」についてはまったく想定していないんだよ。
わたし、すごく男性との恋愛に振り回されているように見えるよね? でも、わたしは、いままで好きになった誰からも、綾の友人がされてしまったような振る舞いをされたことが一切ない(人のこと言えないけど、彼女はなかなかハードな男性を引いたね!)。
これは、運の問題ではない。母性的なケアを担わされることにとても敏感なのだ。そういうパフォーマティビティを期待するような男性に欲望できない。
でも、既存の型を押し付けてこない男性と認定するや否や、その男性に(性的な)女性としての自分を肯定されることやロマンチックな感情の継続を、すごく期待してしまう。相手が期待してこないからこそ、欲望がドライブする。ある種のひとり相撲。ある種の、じゃないか。完膚なきまでにひとり相撲なのだ。
だからわたしは、綾の、この質問にうまく答える言葉を持ち合わせない。
「ひらりさ、私たちは恋愛で最も重要なことの一つについて話していないような気がする。
それは、自分自身の選択で誰か、特に愛する人を傷つけたときのこと。ひらりさは愛している人を傷つけたことある?
その経験から、何かを学んだ?
人を傷つけてしまった自分をどうやって好きであり続けることができた?」
わたしの「恋愛」はそういうシステムではないから。
一応、考えてみると、わたしはわたしが愛した男性を、選択で傷つけるほどにぶつかったことがない。愛せなかったことを理由に傷つけたことはあるけど。でもそれは無神経とか、無配慮とか、すれ違いであって、わたしの選択ではない。また、それらは恋愛関係ではなかった。わたしにとって。
『クィア』の主人公リー(彼は、バロウズの分身でもある)についてバロウズが語った言葉には、まさにわたしのしている「恋愛」に近しいものを感じた。
アラートンはたしかにある種の触れあいではあった。ではリーが求めている触れ合いとはなんだろう? 今にして思えば、それはひどく混乱した概念で、アラートンなる人物とはまるで無関係。中毒患者は自分が他人に与える印象に無関心だが、禁断症状になると無理矢理にでも観客を求めることがある。
──ウィリアム・S・バロウズ/山形浩生+柳下毅一郎訳『クィア』河出書房新社
綾のような経験を経ることができない自分の「恋愛」について当初恥ずかしい気持ちでいたし、わたしはたぶん、綾に対してどこか恥じている気持ちもある。だから前回、このように問うたのだ。
「他人の魂とつながりを持つ経験は、女性とさんざんしているのに、なぜわたしは男性とパートナーシップを結ぼうとするんだろう?」「男性以外のパートナーとのありうる関係性の形について想像することはないだろうか?」
でも、自分ひとりで考えるのではなく、綾に問いかけることには、歪なものがあったと気づいた。「そうしたらいい」「自分も考えることがある」と言ってもらい、背中を押されたかったのだ。これはつまり、綾の承認を受けることで、自分の欲望を作り変えたかったのだと思う。逆に言えば、自分の意思と欲望に、他者承認を必要としていた。
ふと、読書会で一緒に読んだ、『セックスする権利』のことを思い出した。
おそらくわたしたちの最大の希望の支えとなる例では、欲望は政治によって選ばれたものに逆らい、欲望そのもののために選ぶことができる。
──アミア・スリニヴァサン/山田文訳『セックスする権利』勁草書房
読んだとき、いたく感銘を受けたものだけど、実際に欲望を変えてみようと試みると、また別のポリティクスや新しい形のパフォーマティビティにがんじがらめになっている自分に気づく。
『多聞さんのおかしなともだち』(トイ・ヨウ)という漫画がある。主人公の内日(うつい)さんは、人を好きになれないことに悩んでいる。ただ、彼女は、他者を好きになれないことそれ自体に悩んでいるのではない。二人の女性に育てられた彼女は、親から異性愛者としての抑圧を受けたことがない代わりに、「自分達が愛して育てた娘が、誰かを愛することへの期待」に応えられないことに、後ろめたさを感じている。
二人(母達)のことほんまずっと──めちゃくちゃ喜ばせてあげたいって思ってんのに…
──トイ・ヨウ『多聞さんのおかしなともだち 上』KADOKAWA
彼女の母たちは、「政治によって選ばれたもの」に逆らってパートナーシップを結んでいるけれど、その結果、意図せず、内日さんを縛ってしまっている。きっと、娘から直接胸の内を明かされれば、「好きな人がいたっていなくたって私たちはあなたを愛している」と言えるだろう。でも、明かされない限りは、自分たちの逆らいで新たなポリティクスを生んでいる。
前回の綾の手紙で不思議に思ったのは──綾の友達は、「何もしない」でその恋人と一緒にいることはできなかったのか? ということだ。彼女が彼氏から求められていた、「掃除の人」や「キャリアコーチ」や「お手伝いさん」や「カウンセラー」や「お姉さん」や「お母さん」であることをしないで、彼を愛することはできなかったのか? そうしないとそばにいられないと感じていたのなら、彼女の愛は、自分の女性性にかけられた期待に応えるパフォーマティビティだったのではないだろうか。「演じさせられていた」のではなく、「演じたかった」部分があったように感じたのだ。
まあ、程度問題だよね。そこをこれ幸いと搾取してくる他者とはもちろん別れるべきだ。恋愛にも欲望にもいろいろな形があり、わたしたちに他者の恋愛感情のありようを断罪することはできない。ただ、わたしたちの中には、自分の恋愛をことさらに断罪してしまう人がいる。男性との恋愛を諦めるしかないじゃない、と言ったという彼女とわたしの共通点はそこかもしれない。彼女はまだ、その彼を愛しているような気がする。綾はどう思う?
わたしは男性との関係で傷つけ合うほどの近距離になれたことがないことに、後ろめたさを感じる必要はない。恋愛そのものをしない人が、自己を恥じる必要がないのと同様に。そうやって考えることが、わたしがわたしを愛する一歩目かもしれない。でもこの、「愛」の捉え方もまた、綾とすれ違うのだろう。
伝わるように書けているかな? 100%は伝わらないだろう。こちらの言おうとしていることを汲み取ろうとしなくていい。書きたいことを書いてくれればいい。わたしの問いに全て答えようとする必要はない(なんなら全てを無視してもいい!)。わたしの文章から連想して書いてくれればいい。だから、問いは、こう返すね。
綾は、綾自身の選択で誰か、特に愛する人を傷つけたことがある?
その経験から、何かを学んだ?
人を傷つけてしまった自分をどうやって好きであり続けることができた?
実はもう、機上にいない。この文章は、飛行機の中と、トランジット中のラウンジと、帰国1週間後の自宅にいるわたしとの合作だ。ジグザグな論理展開になっているところや、話が飛んでいると感じるところが多かったら、そのせいもあるだろう。
アメリカがイランの核施設を攻撃した。そのことをスペイン人の友達と話し合った。彼から、アメリカがNATO加盟国に対して国防支出目標の比率を高めるよう要求し、スペインがこれを拒んだことを聞いた。調べたら、日本も拒んでいた。
「僕は、自分の国の選択に賛成だ。国に、戦争に投資してほしくないし、戦争をする気はない。僕も行くつもりはないよ」
これを聞いて、元彼が、付き合っていたときに発した言葉を思い出した。
「戦争は始まってほしくないけど、始まったら勝つために頑張ると思う。男だから」
愚かなことにわたしがセックスしたいのは、依然として後者のほうだ。友達には、こういう男性に呆れているというポーズをとっているし、頭の中の7割の自分は呆れているのだけど、残りの3割の自分は、いまだに好きなのである。この3割は「選択」で変えられるのだろうか? 「男性」と「性愛」をする限り、変えられない気がする。男性と友人になったり、男性以外と恋愛をしたりする分には、まともでいられるのに。
わたしたちの往復書簡の目的は、合意でも否定でも、ましてや、すり合わせでもない。恋愛についての、世界についての、多様なパースペクティブを記録しておくこと、語り合うことでパースペクティブを多元化させること。
正面から受け止め合ってもすれ違うことは、脱臼させたほうがいいのかもしれない。どうせずれているし。ずらしたり崩したりして、つなげていってもいいかもしれない。「クィア」って、逸脱するという意味なのだから。
覚えておきたい、ひらりささんの言葉
ひらりささんは、鈴木綾さんからの恋愛に関する質問に対して、〈この質問にうまく答える言葉を持ち合わせない〉と答えた箇所がある。その当たり前であるべき真っすぐな回答が、気持ちいい。なぜなら、相手からの問いに上手く答えて、キャッチボールを滞りなく続けたいという意識が働いてしまいがちだから。〈答える言葉を持ち合わせない〉と前置したうえで、ひらりささんは〈わたしの「恋愛」はそういうシステムではないから〉と自身の恋愛のシステムについて語るのだ。より深く、互いの考え方を伝え合うために。
そしてその姿勢は、この言葉に集約される。〈わたしたちの往復書簡の目的は、合意でも否定でも、ましてや、すり合わせでもない。恋愛についての、世界についての、多様なパースペクティブを記録しておくこと、語り合うことでパースペクティブを多元化させること〉——上辺だけの共感、本意でない同意の甘い言葉…それを欲しての対話は、まったくマチュアではない。〈合意でも否定でも〉なく、〈すり合わせでもない〉。誰かと本気で語り合うことで、私たちは自身が持ち得なかった別の視点からの捉え方を知ることが叶う。言葉を交わし合うこと、自分の考え方や感じ方を共有することは、無理やり共感を引き出したり、同調を必要としない。根本的な対話の心構えを、心に留めておきたい。

『いつか終わる恋愛の、人生への影響について」
鈴木綾×ひらりさ
日本名・日本語で執筆しているものの、日本人ではない鈴木綾(1988年生まれ)と、劇団雌猫のメンバーにして文筆家のひらりさ(1989年生まれ)の一年にわたる往復書簡。GINGER世代に刺さるテーマが並ぶ。30代後半、独身女性のリアルが詰まった、深い示唆に富む言葉の宝庫。

