秋の夜長にイッキ読み!エピローグで社会派に転じる奥深ミステリー~『虎を追う』

ただ慌ただしいだけの毎日。忙しいのに充実感がない。そんなあなたに足りていないのは、頁をめくる読書の時間かもしれません。 本好きライター 温水ゆかりさんがおすすめの1冊を紹介する連載「週末読書のすすめ」。紙に触れてよろこぶ指先、活字を目で追う楽しさ、心と脳をつかって味わう本の世界へ、今週末は旅してみませんか。(編集部)

人間という生き物の深淵を覗く

Licensed by Getty Images

今週末のおすすめ本 : 『虎を追う』櫛木理宇 著

性別のわからない作家名だが、この『虎を追う』の著者である櫛木理宇(くしき・りう)さんは女性。
これを最初に書くのは、本書の最深部には、女性としての怒りが潜んでいると思うからだ。

それはさておき、素人探偵ミステリーの新機軸である。
捜査権を持たない元刑事の初老男性と、彼を「じいちゃん」と呼ぶ孫世代の若者たちに、フリーの週刊誌記者やテレビ局の報道番組担当のプロデューサーなどが加わって、冤罪事件の真相を暴く。

ちなみに冤罪を立証するのと、真犯人を特定するのとは、違う。
いい例が1990年に女児が殺害された足利事件だ(1993年被告に無期懲役の判決。2009年再審で無罪に)。
あの事件では、進化したDNA鑑定法が、無期懲役囚として16年間も収監されていた菅谷さんの冤罪を晴らした。私は釈放された菅谷さんの顔を見てすごく驚いたことをいまもよく憶えている。すごくきれいな目をした“元犯人”だったのだ。
しかしその時点で、事件自体はすでに15年の公訴時効を迎えており(改正前)、再捜査は行われなかった。真犯人はまんまと逃げおおせたことになる。

しかし貪欲なエンタメ読者は、そんな“現実”には、とうてい我慢できない。
というわけで、ご安心あれ、本書はちゃんと真犯人を暴く。
というか、真犯人を暴くことで、“長きにわたって、いつ刑が執行されるかわからん恐怖に死刑囚をおいといたやろ。ごちゃごちゃ言わんと、さっさと釈放せんかい”ということになる。自分でもなんで大阪弁になっているのかよくわからないが・・・・・・。

しかし本書には事件解決後のエピローグがありまして――。
そこが私たち女性に最も訴えかけてくる部分。その件はまた最後に触れます。

ストーリーはこうだ。
30年前に起きた幼女連続殺人事件で、死刑囚となった二人の男のうち、主犯格の亀井戸健が喉頭がんで獄死する。定年退職して5年になる元刑事星野誠司は、その記事を読み、30年間ずっと心の隅に引っかかってきた疑問をあらためて浮上させる。

事件当時、栃木県警の刑事だった星野誠司は、書類仕事の担当で、捜査に直接携わったわけではないが、調書を読んで亀井戸健と伊与淳一の二人が犯人とはどうしても思えなかった。しかし本人たちの自白と、被害女児のシャツについた唾液のDNA鑑定が決め手になって、彼らは起訴され死刑判決を受ける。釈然としなかった。
伊与は裁判で否認に転じ、いまも再審請求をしている。

星野誠司は旧知の記者で、やはり退職してフリーランスになっている小野寺を居酒屋に呼び出し、気持ちを打ち開ける。いまでも冤罪ではないかと疑っていること、冤罪なら伊予淳一にいつ死刑が執行されるか気が気でないこと。古巣の失態を暴きたいわけではないこと。むしろ、本当に二人が犯人なら安心できること。自分の胸のつかえを取るために、この事件を調べてみたいこと。
しかし、万が一新証拠を見つけたとしても、一介の市民である自分に司法に訴えるすべはない。どうしたらいいのか。

小野寺は誠司に言う。市民運動家や人権派の弁護士などと手を組むのが、まあ普通のやり方だが、世論を動かすという手もある。
その見込みがあるなら、自分も記者のはしくれ、「疑惑の銃弾」(編註/1984年の「週刊文春」のキャンペーン報道。世間が熱狂した)のような記事を書く、と。
小野寺はオールドメディアで育った人らしく、自分の筆で世間を動かすことに憧れがあるのだ。

「世間を動かす」で、星野誠司は現代のメディア、インターネットでの拡散を思いつく。大学生になったばかりの同居の孫・星野旭に相談すると、旭は「じいちゃんの文章じゃ(拡散は)無理だ」と言い、せめて動画でなければと断言する。
ある程度故意にあおり、掴みを工夫し、抑制のきいた映像と演出で、大衆の義憤を駆り立てる。そんな方向で行くべきだ、と。
そして旭は、近所の幼馴染みで、小学生の頃「世界でいちばん頭がいい」と信じていた引きこもりのテツ(石橋哲)を巻き込む。

旭が立てた戦略が面白い。第一の犠牲者である幼女の父親に取材し、まず「父子家庭奮闘コミック」をツイッターに上げる。事件のことは明かさない。ただこれは実話ですという断りを入れ、父と娘の梨香とのほのぼのとした関係を漫画にして毎晩更新した。

そして読み手が梨香と父親の関係に十分感情移入した頃を見はからって、最初からの作戦を実行する。梨香が「北蓑辺郡連続幼女殺人事件」の被害者であることを明かしたのだ。
当時8歳、前歯を6本折られ、顔面の至るところを骨折し、内臓を損傷し、膣と肛門に裂傷を負い、股関節がはずれるほど激しく陵辱されていたことも書いた。

リンクさせた事件概要動画の再生回数は増え、チャンネル登録数も増える。
嘲笑混じりの煽りやスレ荒らしも計算済み。
心ない侮辱がかえってロム専の大衆の怒りをかい、自分たちの追い風になると旭はふんでいた。「北蓑辺郡連続幼女殺人事件」は、未解決事件を集めたテレビのスペシャル番組のワンコーナーになったこともあって、しだいに人々の関心を引き始める。

そんな折、新聞社に小包が届く。中身は女児用のスカートと折れた歯だった。
メモには「北蓑辺郡連続幼女殺人事件 終わったと思ったか? おまえたちにはおれの影しか見えない」。「虎より」という署名があった。

歪んだ自己顕示欲からついに姿を現した真犯人。虎とは、第二の犠牲者の幼女が口ずさんでいた歌「TIGER」のことだと思われた。まさに真犯人しか知り得ない「秘密の暴露」だ。

亀井戸や伊与が冤罪であることははっきりした。あとは、虎の正体を突き止めればいい。小野寺が虎を挑発する記事を書くなど、素人探偵チームの連携は加速していく。

コーヒーや酒などの刺激物を、娘(旭の母親)に禁じられたコーヒー好きの誠司じいちゃんが、コーヒーを口にできる日は来るのか。そんな脇筋も、同じコーヒー好きとして見逃せない。酸味がなく、熱くて苦く、苦みの奥に甘さがあるという味の好みまで一緒なんだもん。

本書はとてもバランスのいい作品だと思う。
年寄り世代と若者世代が互いに尊重し合って一つの目標に向かって動けることを示し(世代間隔壁の溶解)、ネットとオールドメディアの現況を冷静に分析し、それぞれの一長一短をうまく利用する知恵を発揮し、行政(=警察や検察)も司法(=裁判)も絶対ではないことを明らかにし、この事件に関わった家族にも個人にも変化が訪れ(成長小説や家族小説としての側面)、異常性欲者の内面にも分け入る。

正直、数ヵ所にインサートされる真犯人の独白シーンを読むのは辛かった。
むごすぎる描写に泣きそうになった。書きますか? ここまで残酷なことを。
その部分を袋綴じにしたかったほどだ。
しかし、事件が解決してのちのエピローグで、著者の真意を知る。
私は真犯人の正体よりも、このエピローグのほうがさらに衝撃的だった。

幼女に性欲を覚える卑怯な男を「ロリコン」と呼んではいけない。
第一、ロリコンの由来となった『ロリータ』という傑作を書いたナボコフに失礼というものではないか。
ナボコフの『ロリータ』は、過去に囚われた“愛の王国”建設に、無残に失敗する哀れな大学教授の話であって、おぞましい性欲の話ではない。

醜い怪物は、いまもどこかで生まれつつある。
彼らは息をひそめ、機会をうかがっている。
特定の個人を捕まえたからといって、この手のおぞましい犯罪は決して終わらない。

セックスを愛情表現ではなく、相手を痛めつけ、侮蔑する手段にする人間は必ずどこかにいる。
著者はエピローグでそう言っている。

文/温水ゆかり

『虎を追う』櫛木理宇 著 ¥1,700/光文社

30年前に起きた連続幼女殺人事件に疑問を抱いた元刑事が、周囲の力を借りながら真相解明に乗り出す。世論を動かすためのSNS利用など現代ならではのツールを駆使したり、昔ながらの粘り強く地道な捜査を積み上げながら真実に迫っていく――。著者曰く「エンタテインメントなミステリー」(『小説宝石』2019年10月号より)。

温水ゆかり
ナビゲーター
温水ゆかり
フリーランス・ライター。『GINGER』創刊時からBOOKレビューを担当。活字、お酒、パンの耳が好き。
このナビゲーターの記事を見る